11. 我々は何によって人を評価してきているのか?
どれだけ 『 本当の自分 』 であるのか、
『 我々 』 は、これを、人を評価する 『 基準 』 にしている
主義、人種、宗教、国籍、権力、地位、有名無名、貧富、性別、年齢、頭の優劣、知識量など、それぞれが大きな意味を持ちます。しかし、有史以来これらが、人を評価するときの我々の絶対的な基準になったことはありません。
それぞれが、それぞれの境遇、立場で、どれだけ本来の、 『 本当の自分 』 であったのかということであったし、今もそうなのではないでしょうか。
我々は、有史以来、様々な枠組みで物事を捉え、その枠組みで人を評価しがちでした。しかし、本当は、元々初めから、 『 個人 』 の 『 人間性 』 を観てきたのではないでしょうか。
男は、、、、、 女は、、、、、
白人は、、、、、 有色人種は、、、、、
我国は、、、、、 あの国は、、、、、
私の信じる宗教は、、、、、 他の宗教は、、、、、
資本主義者は、、、、、社会主義者は、、、、、共産主義者は、、、、、などなど、
このような、対立を煽る表現で物事を捉えがち、考えがちでした。そして、この捉え方、考え方で、とてつもなく大きく悲惨な多くの不幸を産んできてしまいました。
しかし、いつの時代にも、それぞれの枠組みの中に、それぞれの 『 個性 』 の 『 人 』 がいて、本当は、枠組みに囚われることなく、 結局は、その 『 個人 』 の、『 生き方 』 、 『 人間性 』 を観てきたのではないのでしょうか。 『 本当の自分 』 に恥じない 『 生き方 』 を選択できる人なのか、どうなのかを、観てきたのではないのでしょうか。
おおげさですが、これは、歴史的に事実ではないでしょうか。
若者は、いつの時代も 『 カッコ良さ 』 に憧れ、 『 カッコ良さ 』 を求め、その価値基準での言動をとります。しかし、若さゆえに、この 『 自分 』 のエネルギーの使い方を間違う時があります。
それでも、若者が憧れ求める 『 カッコ良さ 』 の真髄も、それぞれの境遇、立場で、どれだけ 『 本当の自分 』 であるのか、ということではないのでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:30
12. 頭が良いということと、賢いということは違う
頭が良いということと、賢いということは違う
頭は素晴らしく良いのに、馬鹿な行いをしている人がいる
頭が良いとは言われないが、素晴らしく賢い行いをしている人がいる
頭が良いということと、賢いということを一緒にしがちではないでしょうか。
世の中は、それぞれの持ち場、持ち場で、頭の良い方々にリードをして頂いています。頭が素晴らしく良くて、素晴らしく賢い行いをする、こういう方々が増えてくることで、世界が好転を加速することができるのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:20
13. 『 我々 』 は、どんな環境の中で生きているのか?
『 我々 』 は、宇宙の中の 『 オアシス 』 の中の、
『 オアシス 』 で、生きている
『 我々 』 は、宇宙の中の 『 オアシス 』 の中の、
『 オアシス 』 で、生かされている
我々は、どんな環境、どんな空間で生きているのでしょうか。
高山病は、気圧や、それに関わる酸素濃度などの影響で、慣れていない人は、標高2400mくらいから発症する可能性があるといいます。この2400m、小高い丘などから、この2400mほどの先を見たならば、その場所は、見える景色からすれば足元にも思えるような近さではないでしょうか。その地点までの距離を、見る場所の高さを引いて、そのまま頭上に置いたところ、そこが、標高2400mの世界ということになります。平坦な所からなら遠くのビルや山を見ることでも、その近さを実感することができると思いますが、本当に想像する以上に近いのではないでしょうか。
旅客機の通常飛んでいる高度が、10000m付近だということですので、10000mという標高は分かりやすいかもしれません。標高2400mは、その高度の4分の1以下ということになります。標高2400m以上の高い山というのが、近くに無い人が多く、実感がそれほど無いのかもしれませんが、標高2400m以上の世界、その環境は、どこか遠くではなく、あたりまえのこととして、常に我々の頭上の近くに存在しています。
標高5000m近くで生活のできる身体能力を身につけておられる方もいますが、この2400m、5000mが、たとえ10000mであったとしても、我々の生活範囲は、本当に限られているのではないでしょうか。
上空とは反対の足元には、地殻やマントル、核がありますが、その地殻の表層の地中を含めたとしても、地球全体から見れば、表面の限られたところで、我々は生きることができているということになります。直径60cmの地球儀に例えてみれば、10000mは、0.5mm以下の幅ということになってしまいますし、直径30cmの地球儀なら、当然ながら、0.25mm以下の幅ということになってしまいます。
見えている大空のすべてが、我々の生きていられるところのように思いがちですが、地表に近い、ごくごく限られたところが、我々の生きていられるところ、ということになるのではないでしょうか。
この限られた空間は、水と空気を保つことができていて、酸素と二酸化炭素の循環をすることができています。そして、-272℃くらいから、60億℃くらいの温度幅があるという、この宇宙の中で、ほとんどの地表の気温を-50℃から+50℃くらいの幅で保つことができています。この中で、多くの生命を育むことができています。距離を光年という単位で表しても表しきれない広大な宇宙の中で、今、我々の知り得る限りにおいて、このような環境のところは、ここにしかありません。
ここで、気温が30℃ほど変化することで、暑いとか寒いとか、平年並みの気温だとか、異常気象だとかと、言うことができています。
この環境の存在こそ、まさに異常と言っていいほどの、奇跡ではないのでしょうか。
よくよくご存じのように、地球は24時間を1日として自転しています。その自転速度は、赤道上で、およそ時速1674Kmになります。そして、およそ365日、1年で太陽の周りを公転していますが、その公転速度は、およそ時速108,000Km、秒速で、およそ30Kmにもなります。さらに、太陽系が、天の川銀河の中で移動している速度は、およそ時速864,000Km、秒速で240Kmくらいにもなるということです。さらに、さらに、銀河が、宇宙の中で移動していて、宇宙全体の膨張速度もあります。我々は、瞬間、瞬間において、いろいろな方向に、もの凄いスピードで、移動していることになります。我々は、この宇宙の中の地球の表面で生存をしています。
我々は、このように一時も静止することなく猛烈な速度で動いているのですが、これを、宇宙全体から観ると、静止しているように観ることもできるのではないでしょうか。そして、我々の体においても同じことが言えて、内面の細部においては、猛烈に躍動的であり、体全体としては、悠然としている、と観ることもできるのではないでしょうか。
我々も、動の存在であり、同時に、静の存在でもある存在として、今、この地球の表面の、限られた空間、とてつもなく価値ある空間で、生きることができている、とも言えるのではないでしょうか。
『 我々 』 は、今、この 『 オアシス 』 の中の、
『 オアシス 』 で、生きている
『 我々 』 は、今、この 『 オアシス 』 の中の、
『 オアシス 』 で、生かされている
『 自分 ( 我々 ) 』 は、このことを、はっきりと意識をする必要があるのではないでしょうか。
そして、 『 奇跡 』 という表現だけではなく、この宇宙には、 『 成長 』、 『 進化 』 の 『 意志 』、 『 方向性 』 というものがあって、我々は、 『 偶然 』 ではなく、 『 必然 』 として存在することができている、と意識することも、大切ではないでしょうか。
子どもが生まれてくる時には、特に、改めて命を支えるすべてに驚嘆をせずにはいられません。
たとえば、赤ん坊は母親の胎内で先に肺呼吸の器官を作り上げて、出産と同時に肺呼吸に切り替えて酸素を体内に供給することができるという機能があります。我々は、すべて、この過程を経て産声を上げて、この世に生れ出てきています。このようなしくみは、偶然に出来上がるものなのでしょうか。何も無いところで、時間さえかければ出来上がってくるものなのでしょうか。
宇宙の中で元素を創造し、さらに、生命を創造し 『 成長 』、 『 進化 』 をさせようとする 『 意志 』、 『 方向性 』 というものが基にあるからこそ、ではないのでしょうか。
ここに存在する 『 自分 ( 我々 ) 』 は、
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 意志 』 による 『 創造の賜物 』
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 にすれば、ここが 『 天国 』
『 やりたいことができる 』
『 自分 』 が、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 として、
より本当に 『 やりたいことをやる 』 ことができている
さらなる 『 自己実現 』 をすることができている
やれるところまでやることができている
やっただけできている
これを、あたりまえのこととして、生きることができている
宇宙の始まりからの、 『 我々 』 の気の遠くなるような時間をかけて 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 が続けてきた 『 自己実現 』 、この先端で、今、我々は生かされて生きているのではないでしょうか。
宇宙飛行士は、このことを肌で実感することができているのではないでしょうか。
我々は、有史以来の、さらには、宇宙の誕生からの 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 自己実現 』 の 『 過程 』 を、そして、今の 『 成果 』 を、自ら実感することのできる時代に生きているのではないでしょうか。
この事実を肌で感じることのできる世代として、生きているのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:18
14. 『 自分 』 の 『 命 』 の重みについて
あたりまえのことですが、 『 自分 』 の 『 心 』 と 『 体 』 は、 『 自分 』 の誕生から現れてきています。
では、 『 自分 』 の 『 命 』 は、いつ始まっているのでしょうか ?
あたりまえのことですが、 『 自分 』 の 『 命 』 は、 『 自分 』 の誕生から始まったのではありません。我々のそれぞれには、2人の親がいますが、基の 『 命 』 は、その2人から受け継いでいます。そして、その2人の親にも、それぞれ2人の親がいます。さらに、それぞれに2人の親がいます。
曽祖父母の代まで観れば、2人、4人、8人で、今の自分は、14人の命を受け継いでいることになります。
10代前(1代を仮に30年とすれば、およそ300年前)までなら、1024人、11代前までなら、2048人の、自分の親の親の命に繋がっていくことになります。
20代前(およそ600年前)までなら、104万8,576人、そこに至るすべての人の命を、自分は受け継いでいることになります。
我々の、それぞれ1人1人には、数えきれない祖先の 『 命 』 が、宿っているのではないでしょうか。
あたりまえのことですが、その自分の祖先の誰か一人がいなければ、今の自分は存在していないことになります。今の、 『 自分 』 の 『 命 』 は、無いことになります。
命の繋がりだけでなく、今の 『 自分 』 は、とてつもなく多くの人の思いやり、愛情と表現してもよいと思いますが、それにも、繋がっているのではないでしょうか。なぜなら、その方々の思いやり、愛情が無ければ、先祖の誰かの 『 命 』 が無く、今の 『 自分 』 の 『 命 』 が、無かったかもしれないからです。
祖先のすべての人、その祖先の人に関わるすべての人、そのすべての命、すべての物事のおかげで、今の 『 自分 』 は、 『 在る 』 のではないでしょうか。
今の自分は、どれだけ多くの人の 『 命 』 を内に持っているのか
今の自分は、どれだけ多くの人の 『 おかげ 』 で生きることができているのか
人口は、原始になるにしたがって、今よりずっと少なかったはずですから、祖先を遡っていけば、多くの人が、同じ祖先に繋がっていくはずです。
そして、究極の究極には、すべてを創造している同じ 『 ひとつ 』 の 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に辿り着くのではないでしょうか。
すべての人が、人類誕生までの数えきれない人と繋がっていて、さらに、生命の誕生へと繋がっているのではないでしょうか。さらに、素粒子の誕生に繋がっていて、究極の究極、すべての人が同じ 『 ひとつ 』 の 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 で繋がっていて、このすべての繋がりに生かされて、今、それぞれの人生を、生きることができているのではないでしょうか。
『 自分 』 の内側には、祖先のすべての命が宿っていて、さらに、その大基に 『 本当の自分 』 の 『 力 』 が宿っているのではないでしょうか。
今、現在の 『 自分 』 の、より大きく、より深い喜びは、祖先のすべての人の喜びであり、 『 本当の自分 』 の喜びでもあるのではないでしょうか。
『 自分 』 の 『 命 』 は、 事実として、
『 自分 』 ひとりの 『 命 』 ではない
我々は、何百年、何千年という歴史のある建造物や、伝統のある物事に、素晴らしさと共に畏敬の念を感じています。しかし、我々のひとりひとりは、何百年、何千年より遙かに長い時間、40億年、さらに138億年という長い長い時間をかけた進化、自己実現の末に、今、ここで、 『 生きて 』 、 『 存在 』 をしているのではないでしょうか。
今、我々のひとりひとりが、身の回りの人、知っている人、出会う人、すべての人と切磋琢磨をして、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 として生きることができているのではないでしょうか。
『 自己実現 』 をしていくことができている
『 やれるところまでやる 』 ことができている
やっただけできるという 『 命 』 、 『 機会 』 を与えられている
生まれてきたこと、今、生きていること、生かされていることで、 『 自分 』 と 『 目の前にいる人 』 に心から、おめでとうと言うことができて、 『 祖先の人 』 、そして、 『 すべての人 』 に、より大きく、より深い感謝と敬意の念を、抱いていくことができるのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:16
15. 『 自分 』 は、ついている
『 自分 』 は、ついている
『 自分 』 は、運がよい
『 自分 』 は、幸運に恵まれている
『 自分 』 は、奇跡に恵まれている
『 自分 』 は、やりたいことを、やることができている
『 自分 』 は、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 として、より本当にやりたいことを、
やれるところまで、やることができている
やっただけ、できている
それぞれが、それぞれの、過酷な境遇を生きているのかもしれません。それでも、 『 自分 』 は、 『 機 会 』 を与えられているのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:14
16. 循環の中に 『 在る 』
すべてが、循環の中に 『 在る 』
万物、すべてが循環をしている
宇宙の始めから、すべてが循環をしている
あたりまえのことだと言われるかもしれませんが、循環に沿う物事が好循環となり、循環に反する物事が悪循環となるのではないでしょうか。
すでに多くの方が、行動を起こしておられますが、我々が作る物についても、リサイクルから、さらにサイクルを基本に作っていきませんか。
そして、我々が循環の大切さを、より意識していくためにも、我々の作る物が、どのような循環をするのかを可能な限り、明示をしていきませんか。
我々に与えられている、奇跡的な環境を、 『 本当の我々 』 が創造している環境を、我々自らが、より本当に大切にしていこうではありませんか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:12
17. 成功とは何か?
本当の成功とは何か
『 足る 』 を 『 知る 』 ということ
すでにある 『 自分 』 の、 物心共の、豊かさに 『 気付く 』 ということ
物心共に、さらに、豊かに成っていく 『 自分 』 の 『 可能性 』 を、
『 実感 』 するということ
『 本当の自分 』 の、 『 力 』 に気付くということ
より 『 本当の自分 』 、 『 真実の自分 』 として、
『 自分 』 を観ることができるということ
より 『 真我 ( 本当の自分 ) 』 として、
『 自己実現 』 することができるということ
より 『 真実の自分 』 に 『 成っていく 』 ということ
すでに 『 自分 』 が、 『 最善 』 であることに 『 気付き 』 、さらに、
『 最善 』 を尽くす 『 機会 』 を与えられている、このことに 『 気付く 』 ということ
今、 『 自分 』 の状況、環境がどうであれ、 『 自分 』 にできることは、 『 自分 』 として、ひたすら 『 最善 』 を尽くす、このことだけではないでしようか。結果がどうであれ、これが、さらなる 『 自分 』 の 『 最善 』 であり、この結果が、次の 『 自分 』 の 『 最善 』 につながっていくのではないでしょうか。
『 自分 』 として 『 最善 』 を尽くすとは、 『 自分 』 の、 『 能力 』 のすべてを出し切る、 『 自分 』 の 『 全力 』 、 『 本気 』 を出し切るということであり、ここに本来の 『 自己実現 』 の 『 道 』 が在り、 『 感動 』 、 『 喜び 』 が在るのではないでしょうか。
『 我々 』 は、すでに、 『 事実 』 を知っているのではないのでしょうか。
『 我々 』 は、すでに、羅針盤を持っているのではないのでしょうか。ただ、お金をたくさん持っている人を、立派な人だと思うのでしょうか。ただ、有名な人を、立派な人だと思うのでしょうか。ただ、権力を持っているだけの人を、立派な人だと思うのでしょうか。 『 我々 』 は、すでに、羅針盤を持っているのではないのでしょうか。
『 我々 』 は、 『 事実 』 として、 『 真実 』 を知っているのではないのでしょうか。
日頃において、『 自分 』 に、問いかけるべきものがあるとするならば、
『 今、 自分は、 最善を尽くしているのか 』 ではないでしようか。
『 今、 自分は、 本気を出し尽くしているのか 』 ではないでしょうか。
『 真実の姿 』 、 『 ありのままの姿 』 、 『 ひたすらな姿 』 、 『 素直な姿 』 、には、容易に、なれないかもしれません。しかし、少しづつ、成長していくことはできるのではないでしょうか。誰にもできるのではないでしょうか。
『 自ら 』 成長しようとすることで、心が、安らいでくるのではないでしょうか。心が、充たされてくるのではないでしょうか。
権力、地位、名誉、名声、富を手に入れていくだけで、心が、安らいでくるのでしょうか。心が、充たされてくるのでしょうか。真の達成感を、実感することができるのでしょうか。
より 『 本当の自分 』 として、 『 自己実現をする 』
『 本当の自分 』 にすれば、すでに、少しずつ、成長することができているのではないでしょうか。
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 にすれば、すでに、元々始めから 『 自分 ( 我々 ) 』 は、この大きな同じひとつの 『 成功 』 の 『 道 』 の上を歩んでいるのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
14:00
18. 科学とは何か?
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 力 』 を明らかにしていくということ
科学は、とてつもなく、大きな恩恵を、我々にもたらしてくれています。
同時に、 『 自分 』 の存在も含めて、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 力 』 無しでは、何も創ることができていないということを、我々が、改めて知ることにもなっているのではないでしょうか。
物事を、知れば知るほど、科学が進歩すればするほど、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 力 』 の偉大さが、現れてきているのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
13:40
19. 教育とは何か?
教える者と、教えられる者が、切磋琢磨をして、
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 を磨き出していくこと
知識を増やすことだけが、教育ではない
お互いに、学ぶところがある
お互いが、お互いから、学んでいく
『 他人 』 が、 『 自分 』 の 『 在り方 』 を、教えてくれている
『 すべて 』 が、 『 自分 』 の 『 在り方 』 を、教えてくれている
『 完璧 』 ではない、 『 未完の自分 』 を許す
『 完璧 』 ではないが、 『 成長していく 』 ことができる
知識を増やすことにとどまらず、教育によって、 『 自分 ( 我々 ) 』 は、 『 心 』 を、磨いてきているのではないでしょうか。
『 心 』 を磨いて、成長し、変化することで、事態、状況、現象を好転させていく、この知恵を、学んできているのではないでしょうか。
すべての人が、迷い、悩み、苦しみながら、 『 本当の自分 』 の 『 力 』 によって、成長し、変化をしようとしているのではないでしょうか。
本来の、自己実現をしていくことが、できているのではないでしょうか。
『 自分 』 を、より本当に、幸せにする教育、 『 我々 』 を、より本当に、幸せにする教育、これを、どんどん実現していこうではありませんか。
『 自分 』 が、人生を、どれだけ真に楽しむことができるのか、 『 自分 』 が、人生で、どれだけ大きく深い喜びを、真に、実感することができるのか、 『 自分 』 の人生の価値をどこまで、真に高めることができるのか、これが、教育にかかっているのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
13:30
20、 宗教とは何か?
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 を、より深く、
『 実感 』 していく為の、教え
本来、宗教の対立は、存在しない
すべての宗教が、『 ひとつ 』 の 『 思い 』 から始まって、
違ったように見えた、 『 基 』 の、同じ 『 ひとつ 』 に、
改めて、気付くことになる
聖地、神社、仏閣とは、 『 自分 』 が、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に、会いに行く場所ではないでしょうか。
そこには、 『 自分 』 に、気付かせようとする、 『 我々 』 の 『 歴史 』 が、あるのではないでしょうか。
そこに行って、改めて、 『 すべて 』 に 『 神 』 や 『 仏 』 、 そして、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 が宿っていることを、教えられるのではないでしょうか。
神道に八百万の神(やおよろずのかみ)という表現がありますが、表現に違いはあっても、 『 自分 』 も、八百万の神の中の 『 ひとつ 』 の存在であることを、そこに行って、改めて、教えられるのではないでしょうか。
あたりまえのことだと思われるかもしれませんが、経文、教えとは、 『 神 』 や 『 仏 』 、 そして、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に、気付く為のものではないでしょうか。 「 月を指し示す指 」 ( 龍樹菩薩 ) なのではないでしょうか。これによって、 『 唯一絶対 』 の、 『 ひとつ 』 の 『 神 』 、 『 仏 』 の本当の意味を、それぞれが理解し、 『 実感 』 していくことになるのではないでしょうか。
宗派とは、ただ、表現の違いだけなのではないのでしょうか。
昔、熱心に仏教のお経を唱える私の叔母に、「 南無阿弥陀仏 」の意味を尋ねたことがあります。叔母は、その時に、「 ありのまま、ということや 」と教えてくれました。その時、私は、意外な答えのように思いましたが、これは愚鈍な私が、歳を重ねるごとに、理解を深めていくことのできる、最高の教えだったと今は思っています。
悟りとは、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 、 『 本来の姿 』 に気付き、これを 『 実感 』 することではないでしょうか。
表しきることのできない、 『 すべての、すべて 』 との 『 一体感 』 を、 『 実感 』 することではないでしょうか。
ここに、絶対の大丈夫がある
ここに、絶対の安心がある
ここに、絶対の積極がある
ここに、絶対の成長がある
ここに、絶対の喜びがある
そして、ここに、絶対の愛がある
悟りとは、すでに心の奥底で知っていること、 『 無我の我 』 を、 『 実感 』 することでもあるのではないでしょうか。
そして、この 『 実感 』 の後にも、改めての、ありのままの、 『 姿 』 があるのではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at
13:20