26. 政治とは何か?
『 我々 』 を、 『 物心共に 』 、より豊かにする為の、 『 道 』 作り
『 我々 』 を、 『 物心共に 』 、より豊かにする為の、 『 しくみ 』 作り
『 我々 』 を、 『 物心共に 』 、より豊かにするとは、
『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 自己実現 』 をすることになる
今、政治は政党政治の形をとっていますが、今後もこれで良いのでしょうか。実質的な議論というより、無益な中傷合戦が、大切な国会の場で続けられがちになっているのではないでしょうか。別の場で行われるべき議論が、大切な国会で行われているということはないでしょうか。
我々すべてが本当に望んでいる世の中というのは、主義や思想を超えて本来同じで、そこに至る為に、どの道を、どのように辿って行くのか、国家百年の計も合わせて議論するのが、国会の場ではないのでしょうか。
政治家は、理想と思われる未来と、現在の現実の間に橋を架け、道を開いていっています。試行錯誤、紆余曲折、切磋琢磨を繰り返し、泥にまみれて、最善の道を求めています。ほとんどの国において、我々は、この真の姿を見て、誰を信任するのかを、それぞれの、意志で決めていると思いますが、建前論だけではなく、さらに実質的で、具体的な議論が自由にできるしくみ、そして、衆愚政治といわれる場当たり的な政治に落ち入らないようにする、新たなしくみを、今改めて、考える必要があるのではないでしょうか。
古来、偉大な発明家、偉大な物事を成し遂げた人は、失敗の大切さ、失敗の本質的な捉え方を力説してきました。そのおかげもあって、どんなに小さなことも失敗無しで創り上げることはできないということを、何かを創り上げたことのある人なら、あたりまえの事実として知っているのではないでしょうか。そのはずだと思うのですが、、なぜ政治では、失敗だけを見て、挑戦の仕方、姿勢、成し遂げようとしている物事を観ようとしないのでしょうか。
今、どうして、実質的な創造に関わっていない人、自ら責任を背負って立とうとせずに、責任を他に転嫁し、周りで批判だけしかしていないような人が、何かをしているような、光を浴びるような状況になるのでしょうか。大切なのは、現況を踏まえ、この現実を具体的にどのように変化をさせていくのか、ではないのでしょうか。
政治家にしても、真の民意を自分の内に持たず、風評と変わらないものを民意として、自分の言動の隠れ蓑にしようとする風潮があるようにも思います。人の揚げ足を取るだけ、批判をするだけ、不平不満を言うだけ、自ら汗をかこうとしていないという人もいます。このようなことは、自らを卑しめていることになるのではないでしょうか。マスコミにも、知る権利、報道の自由を振りかざして、真剣に汗をかいている人の揚げ足を取るだけ、得意顔で衝撃的に、刺激的に、知ったかぶりで、はやし立て、中傷するだけ、物事を荒立てるだけ、そして、その責任を取らない、というような風潮があるようにも思いますが、これも、自らを卑しめていることになるのではないでしょうか。
いつも不平不満だけを煽っているような野次馬的考えでは、創造的な何かを成し遂げることはできないのではないでしょうか。
信任を受けた政治家が、自分が選ばれたのと同じように、誰の政策を支持するのか、誰を信任するするのかを、それぞれの意思でその都度決めていく、このようなしくみを創ることはできないのでしょうか。
そして、あたりまえのことだと思いますが、国も家庭と同じだという思いを持つことが、大切ではないでしょうか。家庭では例えば、祖父母や祖祖父母がいて、父や母がいて子供がいます。医療費が必要で光熱費や食費が必要で、養育費や教育費が必要です。修理の必要な家電があり、家の修繕や改築が必要なのかもしれません。それぞれが、その至らなさを痛感していますが、何も知らない子供は、楽をして美味しいものが食べたいと駄々をこねているかもしれません。できれば、それぞれの願いを充分に叶えてやりたいものですが、限られた状況、予算の中で工夫をしていく必要があります。国が国家であることを、忘れがちということはないでしょうか。
そして、すべてが、一体の世界において、この国家という家庭が、より豊かになるためには、すべての国家が、より豊かになっていかなければ、この家庭が、真に豊かになっていくこともない、そう心することも大切ではないでしょうか。
Posted by 是澤 静桜 at 12:30