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Posted by 滋賀咲くブログ at

 5. 我々の原点の統一 


 物理学において統一理論から大統一理論、そして、超大統一理論ということを考えておられる方がいます。宇宙の成り立ちが少しずつ解明されていくことにワクワクしています。
 生物学においても、我々の遺伝子の神秘が明らかにされつつあります。命の成り立ちが、ゲノムとして解明されつつあります。我々の内側に、どんな力が秘められているのでしょうか。

 今の我々は、昔なら知り得なかった、いろいろなことを教えてもらうことができ、活かしていくことができています。

 物理学や生物学を究めておられる方に限らず、あらゆる方に、あらゆることで 『 力 』 を現して頂いていますが、この我々のあらゆる 『 力 』 の方向を、大きな目で見て、ひとつにすることはできないのでしょうか。このことによって、より良い世界を実現していくことができれば、どんなに素晴らしいことなのでしょうか。
 しかし、これは、我々が、はっきりと意識していないだけで、すでに、できていて、進化という同じ方向を目指して変化をしてきている、とも思うのですが、いかがでしょうか。

 我々の 『 力 』 が、すでに、ひとつになっていて、我々が、進化をしてより良い世界を実現することのできている存在なら、我々は、有史以来の過酷で、残酷な運命に翻弄されることはなかったのではないか、我々は、そんな存在ではない、と思われるかもしれません。
 しかし、本当にそうなのでしょうか。有史以来の聖人、賢人、偉人は、このことが 『 事実 』 であり、そのように変化をしている、と教えてくださっていたのではないでしょうか。そして、有史以来、世の為、人の為に命を奉げられた多くの方々も、このことを心の底から強く望み、信じておられたのではないでしょうか。


 このことを、改めて確認してみようではありませんか。
 そして、みんなが笑顔で、より活き活きと生きている世の中を、改めて意識して、実現していこうではありませんか。


 我々は、試行錯誤、紆余曲折、切磋琢磨を繰り返して、 『 失敗 』 と、 『 成功 』 から、少しずつ、より大切な 『 事実 』 を明らかにしてきていると私は思っています。


 我々を俯瞰すれば、今までの 『 事実 』 を大切に活かすことができているのではないでしょうか。今の時代を生きている我々は、これまでのすべての人の心の奥底の声を、より聞くことができているのではないでしょうか。そして、たとえささやかなことであっても、自分なりに、その声に応えていくことができているのではないでしょうか。



 私は、自分では、子供の時に、かなり辛い思いをしたと思っています。しかし、世界では、今日、明日の命に関わる危険に直面している、私の子供の時とは比較にならならないほど過酷な状況にさらされている子供たちが、今もたくさんいます。
 自分が子どもの時に、過酷すぎる境遇に涙したことはないですか。自分は、その辛さを身にしみて知っているのではないのですか。我々は、今もいろいろなことで、多くの子供たちを犠牲にしていますが、これを続けていくのが、我々の望みなのでしょうか。


 今の自分は、社会の不条理に苦しんではいないですか。これをこのまま次の世代に継がせても悔いは残らないのですか。自分が死ぬ時に後悔することはないのですか。自分にできることは何も無いのでしょうか。



 ひとつの望みのために、我々のそれぞれができることをすれば、大きな力になるのではないでしょうか。





 あなたは、次のことをどう思いますか。




  
  世の中のすべてが、 『 自分 』 とは何か、 『 人間 』 とは何か、という
 
  『 我々 』 の 『 思い 』 、 『 心 』 が、 『 基 』 になっている  





  『 自分 』 の 『 自分 』 に対する 『 認識 』 、 『 心 』 が、

  『 自分 』 に関わる物事の 『 基 』 になっている





  この 『 自分 』 とは何か、

  このことを、より素朴に、より自然に、よりありのままに、捉えることができる  




 どうせ 『 自分 』 なんて、、、 どうせ 『 人間 』 なんて、、、 と思っているのか、 
『 自分 』 は、 『 人間 』 として、 『 自分 』 なりに、 『 成長 』 、 『 進化 』 を遂げていくことのできる存在なのだ、と思っているのか、では、まったく違った事実を創り上げているのではないでしょうか。





 大げさだと思われるかもしれませんが、『 自分 』 とは何か、このことを確認することによって、世界の紛争、差別、偏見、犯罪、貧困、自殺、いじめ、苦悩、を減らしていくことができるのではないでしょうか。 世の中の平和、協力、幸福、希望、生きがい、喜び、を大きく深いものにしていくことができるのではないでしょうか。



 『 我々 』 は、このことを自分自身で、しっかりと確認をしていないばかりに、日常において馬鹿なことをしてしまっているということはないでしょうか。
 すでに在る喜びに気付かずにいるということはないでしょうか。





 『 自分 』 とは何かを、改めて 『 自分 』 なりに確認をする、これは、 『 我々 』 が望む、よりすばらしい世界を実現していく為に欠かせないことではないでしょうか。 『 我々 』 が、いずれ必ず通らなければならない 『 自然の道 』 ではないでしょうか。 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 にすれば、いずれ気が付くこと、いずれ思い出すことであり、いつ気が付くのか、いつ思い出すのか、という 『 思い 』 が、 『 自分 』 の心の奥底に 『 在る 』 のではないでしょうか。



 そして、このことを始めとして世の中の基本になっている物事を、改めて問い直してみれば、すべてが、より本来の姿に整ってくるのではないでしょうか。





 世界の、単純で、あたりまえに見えるすべての物事が、神秘的で複雑な、そして、難解な無数の要素で支えられていると思います。しかし、まずは、おおまかに、ありのままに全体を捉えて、少しずつ詳しく探求をすることはできるのではないでしょうか。 『 我々 』 は、ずっとこれをしてきているのではないでしょうか。





 『 自分 』 とは何か、この問いで 『 我々 』 は、 『 気持ち 』 を 『 ひとつ 』 にすることができるのではないでしょうか。



 表現に違いはあるかもしれませんが、 『 我々 』 は、 同じ 『 思い 』 を持つことができるのではないでしょうか。

 表現に違いはあるかもしれませんが、 『 我々 』 は、基本的に同じ 『 価値観 』 を持つことができるのではないでしょうか。


 そして、すでに、この 『 思い 』 、 『 価値観 』 を 、 『 心 』 の奥底で、持っているのではないでしょうか。





 『 自分 』 とは何か、 『 人間 』 とは何か、というページが主ですが、興味のあるページから見てください。
 拙文ですが、参考にして頂けて、ご賢察をいただければ幸せです。





 




  


Posted by 是澤 静桜 at 15:29

 6. 言葉とは何か?




 最初に、お互いが確認しておきたいこと

 すべての始めに大切なこと





  言葉は、物事を 『 表す 』 為の道具

  そして、言葉は、物事を 『 現す 』 為の道具

  物事を指し示すもの

  物事を 『 表現する 』 為の 『 仮のもの 』





 あたりまえのことですが、我々は言葉とイメージを使って考えています。言葉を使わずに考えることはできません。言葉を使って考えを深めたり、意思疎通を図るということをしています。

 そのため、すべての始めに、まず、言葉は物事を表現する為の道具であり、物事そのものではなく仮のものだということを、、言葉で表現しきれている物事は何もないということを、、この何となく知っていることを、しっかりと再確認することが大切ではないでしょうか。
 お互いの表現したい物事が同じなのに、使う言葉が違うというだけで言い争いをしてしまっているということはないでしょうか。


 我々の体にとって大切なもののひとつに塩がありますが、塩とは何か。
 『 塩 』 を表すのに、 「 しょっぱいもの 」 、 「 NaCl 」 、 「 白いもの 」 、 「 海水にたくさん含まれるもの 」 、 「 体にとって大切だが、摂りすぎはよくないもの 」 、 等々があります。
 そして、よく、塩を知りたいなら舐めてみれば解るとも言います。確かに、実際に口にすれば塩の味を自分の感覚で実感することができます。しかし、塩を表しきることはできません。
 あたりまえのことですが、どんな言葉を使っても、言葉は、『 塩 』 を指し示す道具であり 『 塩 』 そのものではありません。
 言葉を 『 物事 』 そのもののように思いこんで、言葉の表現の違いだけで言い争う、、こんなことをしてはいないでしょうか。

 平和、主義、思想、宗教、文化、政治、経済、教育、科学、環境、などなどについて語るときも、いろいろな言葉による表現の仕方があります。お互いが、言葉の指し示す 『 物事 』 、、言葉の奥に在る表現しようとしている 『 物事 』 、、 『 是 』 を推し量る、、この気持ちを持つことが大切ではないでしょうか。
 言葉の意味を、より深めていくために、同じ言葉を何度も繰り返すこと、何度も噛みしめること、このことが大切ではないでしょうか。





  言葉は、物事を 『 表す 』 為の道具

  そして、言葉は、物事を 『 現す 』 為の道具

  物事を指し示すもの

  物事を 『 表現する 』 為の 『 仮のもの 』





 そして、もうひとつ、言葉に関して大切なことがあります。我々は、『 物事 』 を表現するのに、多くの場合、論理的でなければならないと思っています。しかし、論理的であるとは、自分の知識、言葉が、自分の都合の良いように繋がっているだけなのかもしれないと、注意しておくことも大切ではないでしょうか。論理的であっても、合理的ではない場合があるかもしれません。もちろん、この場合の合理的でないとは、真実の理に適っていないかもしれないということです。
 真実は、時に、多くの言葉で説明する必要がなく、直感的に捉えることのできるもの、ではないでしょうかか。


 お互いで言葉を磨いていく、お互いで我々の 『 基 』 になっている 『 物事 』 を磨き出していこうではありませんか。









  


Posted by 是澤 静桜 at 15:19

 7. 偽善者に踊らされるな



 これは、お互いが切磋琢磨をする時に気を付けたいこと



 偽善者とは誰のことか ?


 特定の誰かのことではありません。








  『 本当の自分 』 の上を覆っている汚れや、ホコリや、殻のようになった

  『 自分 』 の 『 思い 』 、 『 思いこみ 』 のこと





  『 本当の我々 』 の上を覆っている汚れや、ホコリや、殻のようになった

  『 我々 』 の 『 認識 』 のこと








 しばしば、この、 『 思い 』 、 『 思い込み 』  、 『 認識 』 に振り回されてはいないでしょうか。
 この、 『 思い 』 、 『 思い込み 』 、 『 認識 』 に執着するあまり、ヘリクツを並べている、というようなことはないでしょうか。





 拭って磨けば、 『 真理 』 、 『 真実 』 、 『 真我 』 、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』  が、現れてくるのではないでしょうか。



 時に、この汚れや、ホコリや、殻のようになった 『 思い 』 、 『 思いこみ 』 、 『 認識 』 が、 『 真理 』 、  『 真実 』 、 『 真我 』 、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』  に気付かせてくれてもいるのではないでしょうか。





 この 『 自分 ( 我々 ) 』 の 『 心 』 を磨き上げていくことで、より本来の 『 人間味 』 が現れてくるのではないでしょうか。



 この 『 自分 ( 我々 ) 』 が、輝きを増してくるのではないでしょうか。





 『 我々 』 は、元々、始めから、このひとつの、同じ 『 切磋琢磨 』 という、 『 道 』 の上を歩んでいるのではないでしょうか。



 『 我々 』 は、元々、始めから、『 切磋琢磨 』 をして、 『 偽善 』 を祓っていく、 この 『 道 』 の上を歩んでいるのではないでしょうか。







  


Posted by 是澤 静桜 at 15:10

 8. 『 自分 』 とは何か?






『 自分 』 とは何か ?


『 我々 』 とは何か ?


『 人間 』 とは何か ?








  『  自分  』  を着た  『  本当の自分  』  








  『 心 』 と 『 体 』 という  『  自分  』  を着た 

  『  本当の自分  ( 本当の我々 )  』













            THE WHOLE   ( 一 体 )





               『  我々の全体像  』 








  それぞれの 『 自分 』 が、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』としての

  『 自己実現 』 をしている 










  『 心 』 を現そうとしている 『 自分 』 は、どこにいるのか








  『  真我  』 、 『  本当の自分  ( 本当の我々 )  』 が、

  『 生きている 』 『  体  』 を通じて、 『 自然 』 と成長をしている

  『 未完 』 の 『 心 』 を現わしている








  『 自分 』 の現している 『 心 』 は、 『 力 』





  『 自分 』 の 『 心 』 に 『 自分 』 が従い、

  『 すべて 』 が、従ってくる


  『 心 』 は、 『 思い 』

  『 心 』 は、 『 精神 』

  『 心 』 は、 『 意思 』








  『 心 』 を磨いていくことで、穏やかになり、物事を、より深く観ることができ、より幸せに、より平和になってくる



  『 心 』 を磨いていくことで、無限の、 『 力 』 が、現れてくる



  『 心 』 を磨いていくことで、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に成ってくる





  『 心 』 が、 『 先 』








 『 このこと 』 、 『 本当の自分 』 に、我々は、瞑想によっても、気付いてくることができているのではないでしょうか。










 『 自分 』 の 『 体 』 は、 『 自分 』 のものなのでしようか?








 自分の心臓は、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?


 自分の脳は、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?


 自分の胃や腸や肺や肝臓や腎臓などは、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?


 自分の体の37兆個もの細胞は、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?



 自分の体のほとんどの細胞が、入れ替わりをしています
 同じように思っている自分の体ですが、どんどん別の体で生きています

 この自分の体を創っているのは、 『 自分 』 なのでしようか?





 この自分の心臓を動かしているのは、 『 自分 』 なのでしようか?





 この自分の体を生かしている数え切れないしくみ、運動器系、循環器系、神経系、臓器系、免疫系、感覚器系、などなどの数え切れないしくみは、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?








 そもそも、自分の命は、 『 自分 』 が創ったものなのでしようか?








 気が付いたら生きている、この 『 自分 』 は、 『 誰 』 が創ったのでしょうか。








 『 本当の自分 』 と表現してもよい 『 力 』 の支え無しでは、 今の 『 自分 』 は、一瞬たりとも、生きることができないのではないでしょうか。


 物事を 『 自分 』 主体、 『 我々 』 主体、 『 人間 』 主体で捉えようとしがちですが、それは、 『 事実 』 に即しているのでしょうか。 
 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 と表現してもよい 『 基 』 、 『 根源 』 の 『 力 』 、 『 存在 』 、すべての 『 創造の主体 』 から物事を捉えることが、 『 事実 』 に即しているのではないでしょうか。



 『 我々 』 が、創ったように見えている物事であっても、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 と表現してもよい 『 力 』 、 『 存在 』 が創造した物事に支えられて 『 在る 』 のではないでしょうか。



 『 自分 』 に対して、それぞれにそれぞれの不満があるかもしれません。しかし、今の 『 自分 』 は、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 と表現してもよい 『 力 』 、 『 存在 』 による 『 創造の賜物 』 ではないのでしょうか。





  『 体 』 も、 『 本当の自分 』 のもの





 ついつい他人と比較をしてしまうから、そして完璧でないことで 『 自分 』 を大したことのない存在のように思う時があるかもしれません。しかし、 『 本当の自分 』 から観れば、それぞれの 『 自分 』 が、より本当の成長、より本当の進化、より本来の自己実現をしていくことのできる、 『 力 』 を内に秘めた、素晴らしい、そして、すごい 『 未完の存在 』 なのではないでしょうか。
 普段あまり気にはしていませんが、今の 『 自分 』 は、とてつもなく、すごい 『 力 』 に繋がっていて、とてつもなく、すごい奇跡が、あたりまえのように起こっているのではないのでしょうか。


 『 我々 』 の一人一人の 『 自分 』 が、元素の創造に始まって、地球の、おそらく海で生命の誕生に至り、そこから一度も命が途切れることなく進化をしてきました。
 人間としてからも、様々な経験によって切磋琢磨をして、新たな成長を遂げてきているのではないでしょうか。
 歴史を、100年、1000年単位で語る場合がほとんどですが、『 我々 』 のそれぞれは、元素の誕生から、およそ138億年、生命の誕生から、40億年、ホモ・サピエンスとして、20万年、この時間をかけた 『 本当の自分 (本当の我々) 』 の 『 意志 』 と表現してもよいものによる 『 成果 』 であり、この時間の先端の数十年、数年、あるいは、数日、数時間、さらに先端の1分、1秒で、1歩、Ⅰcm、Ⅰmmの新たな成長、進化、自己実現をしようとしている 『 未完の存在 』 なのではないでしょうか。


 宇宙の誕生から、元素の誕生から、繋がっていて、そして、『 自分 』 の命は、ホモ・サピエンス以前の生命の誕生から今日まで、何代もの祖先によって受け継がれ、一度も途切れることなく、繋がっていて、今が 『 在る 』 のではないのでしょうか。
 元素は、元素誕生からのもの、命は、生命誕生からのものではないのでしょうか。



 事実として、『 我々 』 は、ずっと、この自己実現、進化、成長の 『 道 』 を歩んできているのですから、 『 自分 』 は、今もこの 『 力 』 に繋がっているのではないのでしょうか。
 『 本当の自分 』 にすれば、生きているだけで、その喜びが 『 在る 』 のではないでしょうか。





  『 自分 』 を、孤独で、ちっぽけな 『 存在 』 だと思う時があるかもしれない

  しかし、 『 自分 』 は、宇宙の偉大な 『 成果 』 の一部として、

  『 今 』 、 『 ここで 』 、 『 存在 』 し、成長、進化、自己実現をしている


  『 自分 』 は、 『 元気 ( 元の気 ) 』 に、繋がっている

  『 自分 』 は、 『 本気 』 に、繋がっている







  『 自分 』 は、宇宙を創造し、留まることなく成長、進化、自己実現をしている

  『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 力 』 に繋がっている








  ここが 『 我々 』 の始まり  

  ここが 『 自分 』 の人生の始まり  








  『  自分  』 を着た 『  本当の自分  』  








  『 心 』 と 『 体 』 という 『  自分  』 を着た

  『  本当の自分  ( 本当の我々 )  』 








 この宇宙を、創造し、存在させ、 『 自分 』 を存在させている、このすべての創造の 『 基 』 、 『 根源 』 に 『 在る 』 、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 のことを、 『 我々 』 は、有史以来、いろいろな言葉を使って表現しようとしてきているのではないでしょうか。
 あなたの言葉で表現をしている 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に、繋がっているのではないでしょうか。


『 神 』
『 仏 』 
『 偉大なる存在 』
『 創造主 』
『 主体 』
『 真我 』
『 天 』
『 光 』
『 タオ 道 』
『 魂 』
『 霊魂 』
『 精霊 』
『 気 』
『 元気 ( 元の気 ) 』
『 本気 』
『 力 』
『 成長力 』
『 進化力 』
『 動 』
『 静 』
『 無 』
『 空 くう 』
『 虚空 』
『 是 』
『 内なる力 』
『 静かなる心 』
『 大いなる心 』
『 本心 』
『 真心 』
『 精神 』
『 良心 』
『 良知 』
『 法 ( 真実の法 ) 』
『 真実 』
『 真理 』
『 道理 』
『 自然 』
『 自然の摂理 』
『 宇宙の摂理 』
『 一体の力 』
『 宇宙全体を支える力 』 
『 宇宙全体を創造している力 』                
『 未知 ( すでに、我々の内側にある、思い出していくことのできる未知 ) 』











            THE WHOLE   ( 一 体 )





               『 我々の全体像 』 





  『 自分 』 は、時空の 『 基 』 に在る、この 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 から現れて、この 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に帰っていく





  ここに、この 『 世界 』 に、 『 実相 』 として、すでに、 『 大調和 』 が、 『  在る  』  


  ここに、 『 実相 』 として、すでに、 『 愛 』 が、 『 在る 』


  『 万物一体の愛 』 が、 『 在る 』 





 『 自分 』 の言動は、 『 すべて 』 に及んでいるのではないでしょうか。


 『 自分 』 は、 『 全体 』 と  『 一体 』 、 『 ひとつ 』 であり、その 『 ひとつ 』 と共に、 『 在る 』 のではないでしょうか。


 『 ひとつ 』 である 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 意 』 に叶うことをするならば、その 『 自分 』 にとって 『 素晴らしき良きこと 』 が起こるのは、必然ではないでしょうか。 
 『 ひとつ 』 である 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 意 』 に反することをするならば、その 『 自分 』 にとって 『 良きこと 』 が起こるはずがないのではないでしょうか。
 利他の言動は、感動を伴って 『 自分 』 の喜びとなり、単なる利己は苦難の遠回りをして究極、利他にたどり着く。利他と利己はひとつになり、元々始めから 『 ひとつ 』 だったことに気付くことになるのではないでしょうか。
 『 我々 』 の喜びと豊かさは、 『 我々 』 が、 『 役に立ち合う 』 ことによって、より大きく、より深くなっていく、他給自足、自給他足は、 『 我々 』 の人生の 『 真理 』 、 『 真実 』 ではないでしょうか。



 昔から 『 お天とうさま 』 は、すべてお見通しだと言われてきていますが、 『 自分 』 の心の奥底に 『 在る 』 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 は、 『 自分 』 が何をしているのかをすべて知っていて、知っているからこその現象によって、より 『 真理 』 、 『 真実 』 の 『 道 』 に気付くことができているのではないでしょうか。








  『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 から観れば、すでに、すべてが、 『 良く 』 なっている



  『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 から観れば、すでに、 『 あるがままの力 』 によって、
すべてが、 『 成長 』 、『 進化 』 をしている



  『 あるがままの力 』 を意識することで、より 『 本来の力 』 を現していくことができる



  すでに、 『 さらなる成長 』 、 『 さらなる進化 』 の為の、経験と、知識と、知恵を積んでいる








  すべてを、  『  すべて  』  が知っている  








 『 世界 』 を素粒子の大きさで観ることができたなら、『 我々 』 は、自他を区別できるのでしょうか。
 すべてが素粒子でできているのではないでしょうか。
 『 事実 』 として、すべての人と繋がっていて、宇宙と繋がっているのではないのでしょうか。
 すべてが、形を変えて、 『 存在 』 しているだけではないのでしょうか。

 『 我々 』 の 『 根源 』 は、 『 事実 』 として繋がっているのではないでしょうか。








  『  我々  』  は、  『  すべて  』  で  

  『  ひとつ  』  、

  『  全体  』  の中の、  『  部分  』  として存在している








  すべての存在の  『  基  』  に、  『  ひとつ  』  の、  


  『  本当の自分  (  本当の我々  )  』  が  『  在る  』














  


Posted by 是澤 静桜 at 15:00

 9. 何の為に生きているのか?









  『  やりたいことをやる  』   この為に生きている








  やりたいことをやればよい  

  『  自分  』 の、 『 やれるところまで 』 やればよい  



  極論すれば、 やりたいことを、やりたいようにやる  それでよい








 そんな馬鹿な、社会が荒廃し成り立たなくなると思われるかもしれません。しかし、 『 自分 』 がやりたいことをやる、というのではありません。
 より本当に、やりたいことをやる、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 としてやりたいことをやる、より本当に、 『 元気 ( 元の気 ) 』 になることをやる、ということです。
 より本当に、 『 本気 』 になる、ということです。



  本来の、 『 やりたいことをやる 』

  『 真 我 ( 本当の自分 ) 』 が、 『 やりたいことをやる 』     

  『 真 我 ( 本当の自分 )  』 として 『 自己実現 』 、 
  『 進化 』 、 『 成長 』 をする


  本来の、 『 自己実現 』 をする



  『 自 分 』 として、より大きく、より深い喜びを実感する



  この為に生きている





  やろうがやるまいが、 『 本当の自分 』 の 『 力 』 が、動き出す


  『 自 分 』 のすべてが、この 『 道 』 の上に乗っている





 『  やりたいことをやる  』 、 このことによって、自分の体の中の、心臓や、脳や、いろいろな臓器のように、あるいは、いろいろな細胞の、ひとつひとつのように、 『 本当の自分 』、 『 全体 』 の中の 『 個 』 の役割をより果たしていくことにもなるのではないでしょうか。
 


  すでに、それぞれが自分なりの使命を果たしている

  さらにこれから、より本来の役割を果たしていくことができる





 どうしてよいのか解らない、迷っている、苦しんでいると思いがちですが、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 にすれば、すでに元々始めから 『 自分 』 は、 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 自己実現 』 、 『 進化 』 、 『 成長 』 の大きな 『 道 』 の上を歩んでいるのではないでしょうか。
 より 『 本当の自分 』 として、より本当に 『 やりたいこと 』 を、 『 自分 』 が、やれるところまでやることができているのではないでしょうか。





  すでに  『 命 』  を与えられている者は、自ら本来の 『 力 』 を現すことが
  できている


  やれるところまでやることができている


  やっただけできている


  どんな立場でも、最善を尽くすことができている


  生きている限り、成長することができている





 草木は、与えられた環境で、ただただひたすら成長をし、花を咲かせようとしています。我々は、考えることができますので、与えられた境遇を不満に思い、悩み苦しみ、これが、ありのままの成長をできなくすることがあります。時に、考えることを利用して、成長しない言い訳を探したりすることもあります。そこで、草木のように、ただただひたすら成長をし、花を咲かせようと、日々、生活することを、あえて精進すると言うこともあります。
 耐え難い苦しみを味わう時もありますが、そんな時にも考えることができるからこその喜び、幸福感もあったのではないでしょうか。より大きく、より深い喜び、幸福感を羅針盤にして、より本来の成長をしてくることができているのではないでしょうか。いろいろな花を咲かせてくることができているのではないでしょうか。
 いろいろな状況の中、 『 自分 』 の責任で、物事の見方、捉え方、生き方を選択することができているのではないでしょうか。
 生きている限り、挑戦しようとすれば、挑戦することができているのではないでしょうか。


 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 は、宇宙の誕生から、宇宙全体を変化させ、新たな奇跡を起こし続けてきています。
 生命の誕生に到達してからも、新たな奇跡を起こし、進化させ、成長させ続けてきているのではないでしょうか。この 『 力 』 は、今も、この身に働いているのではないでしょうか。





 それぞれの 『 自分 』 の人生には、とてつもなく大きく深い価値と可能性が、そして、醍醐味があるのではないでしょうか。
 この価値と可能性を 『 自分 』 は、過小評価をしてはいないでしょうか。すでにある醍醐味に気付かずにいるということはないでしょうか。





 人生において、困難を克服した人、困難に打ち勝った人というのは、 『 自分 』 の 『 内なる力 ( 元の気 ) 』 に気付いた人なのではないでしょうか。
 困難に立ち向かった人というのは、何度も何度もの失敗、何度も何度もの締め付けられるような不安、恐れ、絶望感、これらに押し潰されそうになりながらも、この 『 自分 』 の 『 内なる力 ( 元の気 ) 』 を信じて、震えながらも、踏ん張って、ひたすら前に進み続けた人なのではないでしょうか。始めから、9999回の失敗や挫折を覚悟して、挑み続け、一歩一歩、ひたすら前に進んだ人ではないのでしょうか。



  『 自分 』 の力だけでは何もすることのできていない人生で成長をしていく


  より 『 真実 』 の 『 自分 』 として、より本当に 
  『 やりたいこと 』 を問い続けていく


  『 自分 』  を  『 極めていく 』  


  『 普遍的価値 』  を  『 追及していく 』


  『 芯の力 』  を出していく



  『 自分 』 の境遇で立つ


  『 不完全な自分 』 、 『 未完の自分 』 として立ち上がればよい


  『 失敗 』 と、 『 成功 』 から、 『 不本意 』 と、 
  『 本意 』 から、『 本当の自分 』 の 『 思い 』 を学んでいけばよい


  『 自分 』 の 『 道 』 の真ん中を目指していけばよい


  『 自分 』 の、内なる、 『 声 』 を聞いていけばよい


  ただひたすら、一生懸命に生きていけばよい


  ただひたすら、 『 自分 』 の生き方を示せばよい


  目の前に、無限で未知の可能性が広がっている


  何を選択するかは、自分しだい
     



  『 自分 』 の 『 内なる力 ( 元の気 ) 』 に気付いて、やれるところまでやる
  『 自分 ( 我々 ) 』 は、元々始めから、この道の上を歩んでいる 


  思いが、 『 自分 』 のものでなく、 『 本当の自分 』 のものであるならば、
  『 個性 』 を発揮し、より 『 愛 』 を実現することになる


  天分をもって、分を尽くすことになる





  誰にも認められないかもしれない

  しかし、 『 本当の自分 』 は、すべてを知っている

  『 本当の自分 』 は、 『 自分 』 を知っている








 より本当に、やりたいことを、主体的に、やれるところまでやる、これが、 『 自分 』 にとっての最高となり、 『 すべて 』 にとっての最高となるのではないでしょうか。





 より本当にやりたいこと、これは、大層なことではないかもしれません。ごくごく些細なことなのかもしれません。たとえば、あたりまえのことのように思える 『 自分 』 の存在や、身の回りの物事に喜びを実感していくことなのかもしれません。あたりまえのことが、 『 奇跡の結晶 』 なのですから。そして、このことが、すべてに新たな、ありがたさと喜びを実感していくことの始まりになるのかもしれません。 より 『 本当の自分 』 として、喜びを実感していくことの始まりになるのかもしれません。
 これが、 『 自然の道 』 ではないでしょうか。


 『 より本当の 本気 』 のままに、毎日、毎日を、ただ今、この時、この時を、ただただ、ひたすらに、淡々と生きておられる、そういう方々に、お会いする度に、私は、私の未熟さを思い知らされています。





  『 自分 』 なりの、たくさんの 『 花 』 を咲かせる為に生きている


  これが、 『  本当の自分  』  の  『  花  』  を咲かせていくことになる


  この  『  花  』  は、やがて  『  実  』  を結び、次の世代の  『  種  』  になる



  『 本当の自分 』 が、何の為に生きているのかという 『 基 』 があって、その上に、何の為に生きているのかという 『 自分 』 の 『 人生 』 が 『 在る 』









  


Posted by 是澤 静桜 at 14:50

10. 人生とは何か?









     『  機 会  』  








  『 自分 』 を使う  『  機 会  』  



  『  本当の自分  ( 本当の我々 )  』 が、

  『 自己実現 』 をする 『  機 会  』





 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 が、 『 命 』 を使う 『 機 会 』 ではないでしょうか。


 限られた 『 今生の時間 』 という、 『 命 』 を使う 『 機 会 』 ではないでしょうか。






  『 自分 』 が、 より 『 本当の自分 』 として、 

  より本当にやりたいことを、やれるところまでやる

  これが、身の回りの、世界を変えていく

  どれだけやったのか、どこまでやったのか、が、

  『 自分 』 の 『 人生 』 として残る









  


Posted by 是澤 静桜 at 14:40

11. 我々は何によって人を評価してきているのか?









  どれだけ  『  本当の自分  』  であるのか、

  『 我々 』 は、これを、人を評価する 『 基準 』 にしている  








 主義、人種、宗教、国籍、権力、地位、有名無名、貧富、性別、年齢、頭の優劣、知識量など、それぞれが大きな意味を持ちます。しかし、有史以来これらが、人を評価するときの我々の絶対的な基準になったことはありません。
 それぞれが、それぞれの境遇、立場で、どれだけ本来の、 『 本当の自分 』 であったのかということであったし、今もそうなのではないでしょうか。


 我々は、有史以来、様々な枠組みで物事を捉え、その枠組みで人を評価しがちでした。しかし、本当は、元々初めから、 『 個人 』 の 『 人間性 』 を観てきたのではないでしょうか。

  男は、、、、、 女は、、、、、
  白人は、、、、、 有色人種は、、、、、 
  我国は、、、、、 あの国は、、、、、
  私の信じる宗教は、、、、、 他の宗教は、、、、、 
  資本主義者は、、、、、社会主義者は、、、、、共産主義者は、、、、、などなど、

 このような、対立を煽る表現で物事を捉えがち、考えがちでした。そして、この捉え方、考え方で、とてつもなく大きく悲惨な多くの不幸を産んできてしまいました。
 しかし、いつの時代にも、それぞれの枠組みの中に、それぞれの 『 個性 』 の 『 人 』 がいて、本当は、枠組みに囚われることなく、 結局は、その 『 個人 』 の、『 生き方 』 、 『 人間性 』 を観てきたのではないのでしょうか。 『 本当の自分 』 に恥じない 『 生き方 』 を選択できる人なのか、どうなのかを、観てきたのではないのでしょうか。
 おおげさですが、これは、歴史的に事実ではないでしょうか。








 若者は、いつの時代も 『 カッコ良さ 』 に憧れ、 『 カッコ良さ 』 を求め、その価値基準での言動をとります。しかし、若さゆえに、この 『 自分 』 のエネルギーの使い方を間違う時があります。
 それでも、若者が憧れ求める 『 カッコ良さ 』 の真髄も、それぞれの境遇、立場で、どれだけ 『 本当の自分 』 であるのか、ということではないのでしょうか。









  


Posted by 是澤 静桜 at 14:30

12. 頭が良いということと、賢いということは違う









 頭が良いということと、賢いということは違う








  頭は素晴らしく良いのに、馬鹿な行いをしている人がいる  


  頭が良いとは言われないが、素晴らしく賢い行いをしている人がいる  





 頭が良いということと、賢いということを一緒にしがちではないでしょうか。


 世の中は、それぞれの持ち場、持ち場で、頭の良い方々にリードをして頂いています。頭が素晴らしく良くて、素晴らしく賢い行いをする、こういう方々が増えてくることで、世界が好転を加速することができるのではないでしょうか。














  


Posted by 是澤 静桜 at 14:20

13. 『 我々 』 は、どんな環境の中で生きているのか?









  『 我々 』 は、宇宙の中の 『 オアシス 』 の中の、

  『 オアシス 』 で、生きている  



  『 我々 』 は、宇宙の中の 『 オアシス 』 の中の、

  『 オアシス 』 で、生かされている  








 我々は、どんな環境、どんな空間で生きているのでしょうか。

 高山病は、気圧や、それに関わる酸素濃度などの影響で、慣れていない人は、標高2400mくらいから発症する可能性があるといいます。この2400m、小高い丘などから、この2400mほどの先を見たならば、その場所は、見える景色からすれば足元にも思えるような近さではないでしょうか。その地点までの距離を、見る場所の高さを引いて、そのまま頭上に置いたところ、そこが、標高2400mの世界ということになります。平坦な所からなら遠くのビルや山を見ることでも、その近さを実感することができると思いますが、本当に想像する以上に近いのではないでしょうか。

 旅客機の通常飛んでいる高度が、10000m付近だということですので、10000mという標高は分かりやすいかもしれません。標高2400mは、その高度の4分の1以下ということになります。標高2400m以上の高い山というのが、近くに無い人が多く、実感がそれほど無いのかもしれませんが、標高2400m以上の世界、その環境は、どこか遠くではなく、あたりまえのこととして、常に我々の頭上の近くに存在しています。

 標高5000m近くで生活のできる身体能力を身につけておられる方もいますが、この2400m、5000mが、たとえ10000mであったとしても、我々の生活範囲は、本当に限られているのではないでしょうか。
 上空とは反対の足元には、地殻やマントル、核がありますが、その地殻の表層の地中を含めたとしても、地球全体から見れば、表面の限られたところで、我々は生きることができているということになります。直径60cmの地球儀に例えてみれば、10000mは、0.5mm以下の幅ということになってしまいますし、直径30cmの地球儀なら、当然ながら、0.25mm以下の幅ということになってしまいます。


 見えている大空のすべてが、我々の生きていられるところのように思いがちですが、地表に近い、ごくごく限られたところが、我々の生きていられるところ、ということになるのではないでしょうか。


 この限られた空間は、水と空気を保つことができていて、酸素と二酸化炭素の循環をすることができています。そして、-272℃くらいから、60億℃くらいの温度幅があるという、この宇宙の中で、ほとんどの地表の気温を-50℃から+50℃くらいの幅で保つことができています。この中で、多くの生命を育むことができています。距離を光年という単位で表しても表しきれない広大な宇宙の中で、今、我々の知り得る限りにおいて、このような環境のところは、ここにしかありません。
 ここで、気温が30℃ほど変化することで、暑いとか寒いとか、平年並みの気温だとか、異常気象だとかと、言うことができています。
 この環境の存在こそ、まさに異常と言っていいほどの、奇跡ではないのでしょうか。


 よくよくご存じのように、地球は24時間を1日として自転しています。その自転速度は、赤道上で、およそ時速1674Kmになります。そして、およそ365日、1年で太陽の周りを公転していますが、その公転速度は、およそ時速108,000Km、秒速で、およそ30Kmにもなります。さらに、太陽系が、天の川銀河の中で移動している速度は、およそ時速864,000Km、秒速で240Kmくらいにもなるということです。さらに、さらに、銀河が、宇宙の中で移動していて、宇宙全体の膨張速度もあります。我々は、瞬間、瞬間において、いろいろな方向に、もの凄いスピードで、移動していることになります。我々は、この宇宙の中の地球の表面で生存をしています。


 我々は、このように一時も静止することなく猛烈な速度で動いているのですが、これを、宇宙全体から観ると、静止しているように観ることもできるのではないでしょうか。そして、我々の体においても同じことが言えて、内面の細部においては、猛烈に躍動的であり、体全体としては、悠然としている、と観ることもできるのではないでしょうか。
 我々も、動の存在であり、同時に、静の存在でもある存在として、今、この地球の表面の、限られた空間、とてつもなく価値ある空間で、生きることができている、とも言えるのではないでしょうか。








  『 我々 』 は、今、この 『 オアシス 』 の中の、

  『 オアシス 』 で、生きている  



  『 我々 』 は、今、この 『 オアシス 』 の中の、

  『 オアシス 』 で、生かされている








 『 自分 ( 我々 ) 』 は、このことを、はっきりと意識をする必要があるのではないでしょうか。





 そして、 『 奇跡 』 という表現だけではなく、この宇宙には、 『 成長 』、 『 進化 』 の 『 意志 』、 『 方向性 』 というものがあって、我々は、 『 偶然 』 ではなく、 『 必然 』 として存在することができている、と意識することも、大切ではないでしょうか。
 


 子どもが生まれてくる時には、特に、改めて命を支えるすべてに驚嘆をせずにはいられません。
 たとえば、赤ん坊は母親の胎内で先に肺呼吸の器官を作り上げて、出産と同時に肺呼吸に切り替えて酸素を体内に供給することができるという機能があります。我々は、すべて、この過程を経て産声を上げて、この世に生れ出てきています。このようなしくみは、偶然に出来上がるものなのでしょうか。何も無いところで、時間さえかければ出来上がってくるものなのでしょうか。

 宇宙の中で元素を創造し、さらに、生命を創造し 『 成長 』、 『 進化 』 をさせようとする 『 意志 』、 『 方向性 』 というものが基にあるからこそ、ではないのでしょうか。





  ここに存在する 『 自分 ( 我々 ) 』 は、

  『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』  の  『 意志 』  による  『 創造の賜物 』  



  『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』  にすれば、ここが  『 天国 』  



  『 やりたいことができる 』


  『 自分 』 が、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 として、
  より本当に 『 やりたいことをやる 』 ことができている


  さらなる 『 自己実現 』 をすることができている


  やれるところまでやることができている


  やっただけできている


  これを、あたりまえのこととして、生きることができている





 宇宙の始まりからの、 『 我々 』 の気の遠くなるような時間をかけて 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 が続けてきた 『 自己実現 』 、この先端で、今、我々は生かされて生きているのではないでしょうか。

 宇宙飛行士は、このことを肌で実感することができているのではないでしょうか。

 我々は、有史以来の、さらには、宇宙の誕生からの 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 の 『 自己実現 』 の 『 過程 』 を、そして、今の 『 成果 』 を、自ら実感することのできる時代に生きているのではないでしょうか。
 この事実を肌で感じることのできる世代として、生きているのではないでしょうか。









  


Posted by 是澤 静桜 at 14:18

14.  『 自分 』 の 『 命 』 の重みについて




 あたりまえのことですが、 『 自分 』 の 『 心 』 と 『 体 』 は、 『 自分 』 の誕生から現れてきています。


 では、 『 自分 』 の 『 命 』 は、いつ始まっているのでしょうか ?



 あたりまえのことですが、 『 自分 』 の 『 命 』 は、 『 自分 』 の誕生から始まったのではありません。我々のそれぞれには、2人の親がいますが、基の 『 命 』 は、その2人から受け継いでいます。そして、その2人の親にも、それぞれ2人の親がいます。さらに、それぞれに2人の親がいます。
 曽祖父母の代まで観れば、2人、4人、8人で、今の自分は、14人の命を受け継いでいることになります。

 10代前(1代を仮に30年とすれば、およそ300年前)までなら、1024人、11代前までなら、2048人の、自分の親の親の命に繋がっていくことになります。
 20代前(およそ600年前)までなら、104万8,576人、そこに至るすべての人の命を、自分は受け継いでいることになります。
 我々の、それぞれ1人1人には、数えきれない祖先の 『 命 』 が、宿っているのではないでしょうか。


 あたりまえのことですが、その自分の祖先の誰か一人がいなければ、今の自分は存在していないことになります。今の、 『 自分 』 の 『 命 』 は、無いことになります。





 命の繋がりだけでなく、今の 『 自分 』 は、とてつもなく多くの人の思いやり、愛情と表現してもよいと思いますが、それにも、繋がっているのではないでしょうか。なぜなら、その方々の思いやり、愛情が無ければ、先祖の誰かの 『 命 』 が無く、今の 『 自分 』 の 『 命 』 が、無かったかもしれないからです。


 祖先のすべての人、その祖先の人に関わるすべての人、そのすべての命、すべての物事のおかげで、今の 『 自分 』 は、 『 在る 』 のではないでしょうか。





  今の自分は、どれだけ多くの人の  『 命 』 を内に持っているのか


  今の自分は、どれだけ多くの人の 『 おかげ 』 で生きることができているのか





 人口は、原始になるにしたがって、今よりずっと少なかったはずですから、祖先を遡っていけば、多くの人が、同じ祖先に繋がっていくはずです。


 そして、究極の究極には、すべてを創造している同じ 『 ひとつ 』 の 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 に辿り着くのではないでしょうか。


 すべての人が、人類誕生までの数えきれない人と繋がっていて、さらに、生命の誕生へと繋がっているのではないでしょうか。さらに、素粒子の誕生に繋がっていて、究極の究極、すべての人が同じ 『 ひとつ 』 の 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 で繋がっていて、このすべての繋がりに生かされて、今、それぞれの人生を、生きることができているのではないでしょうか。
 『 自分 』 の内側には、祖先のすべての命が宿っていて、さらに、その大基に 『 本当の自分 』 の 『 力 』 が宿っているのではないでしょうか。

 今、現在の 『 自分 』 の、より大きく、より深い喜びは、祖先のすべての人の喜びであり、 『 本当の自分 』 の喜びでもあるのではないでしょうか。





  『 自分 』 の 『 命 』 は、 事実として、 

  『 自分 』 ひとりの 『 命 』 ではない





 我々は、何百年、何千年という歴史のある建造物や、伝統のある物事に、素晴らしさと共に畏敬の念を感じています。しかし、我々のひとりひとりは、何百年、何千年より遙かに長い時間、40億年、さらに138億年という長い長い時間をかけた進化、自己実現の末に、今、ここで、 『 生きて 』 、 『 存在 』 をしているのではないでしょうか。



 今、我々のひとりひとりが、身の回りの人、知っている人、出会う人、すべての人と切磋琢磨をして、より 『 本当の自分 ( 本当の我々 ) 』 として生きることができているのではないでしょうか。



  『 自己実現 』 をしていくことができている

  『 やれるところまでやる 』 ことができている

     
  やっただけできるという 『 命 』 、 『 機会 』 を与えられている


 生まれてきたこと、今、生きていること、生かされていることで、 『 自分 』 と 『 目の前にいる人 』 に心から、おめでとうと言うことができて、 『 祖先の人 』 、そして、 『 すべての人 』 に、より大きく、より深い感謝と敬意の念を、抱いていくことができるのではないでしょうか。









  


Posted by 是澤 静桜 at 14:16